特集「利休、二つの系譜」

日本の伝統文化のひとつ、「茶道」。

そこには作法だけでなく、コミュニケーションのあり方まで、様々な「かくあるべし」が凝縮されています。また、道具の選び方や調え方、お茶の点て方やもてなし方などは、創始者の趣味や哲学に寄り添うもので、各流派によって異なります。

身近に感じつつも近寄りがたく、求めるほどにつかみきれない、深遠なる茶の道。今回は、千利休と利休の系譜を継ぐ5人の人物を通して、彼らの美学や生き方がどのような「茶道」を形作り、「茶道」がどのような変遷を遂げてきたのかをダイジェストでたどります。

※この記事では、「点前」、「点てる」、「茶の湯」と表記します。

参考文献
千宗屋『茶 利休と今をつなぐ』新潮社/神津朝夫 『利休・織部・遠州 くらべる茶の湯』淡交社/神津朝夫 『千利休の「わび」とはなにか』角川学芸出版/岡本浩一 『80億人の「侘び寂び」教養講座』淡交社/依田徹 『茶道教養講座④茶を好んだ人』淡交社/久野治『新訂 古田織部の世界』鳥影社/竹田理絵 『世界のビジネスエリートが知っている 教養としての茶道』自由国民社/赤瀬川原平 『千利休 無言の前衛』岩波書店


名利共に休す。千利休のこころ

お茶は平安時代、抹茶を飲む習慣は鎌倉時代にいずれも中国から伝わりました。
八代将軍足利義政の時代に登場した茶人、珠光(しゅこう:1423頃〜1502)は、中国伝来の唐物道具が流行るなか、国産の茶道具にも目を向け、より深い精神性に基づいた茶の湯を志向しました。

この精神は武野紹鷗(たけのじょうおう:1502〜1555)に受け継がれ、さらに千利休(1522〜1591)が茶室や茶道具、作法を一体化する茶の湯文化を大成しました。

堺の商人と信長、秀吉の接点

利休は堺の商家に生まれ、父を早く亡くしました。10代で当主となった利休は、当時の堺商人の交際のために不可欠だった茶の湯に親しみ、やがてその腕をめきめきと上げていきます。

時の武将、織田信長(1534〜1582)は貿易港として栄えていた堺に強い関心を持ち、やがて、堺の豪商たちを通じて茶の湯を知ります。信長は特に茶道具の美しさに魅了され、名物茶器の購入・寄贈を命じる「名物狩り」を盛んに行い、そこで蒐集した品を披露するために茶会を開きます。その場の職務を担当する三人の茶堂の一人が、利休でした。茶堂とは、茶器の準備、点前、道具の管理などを担当する専門家で、大名に仕えた茶人を指します。

本能寺の変で信長が自害した後、天下統一を果たした豊臣秀吉(1537〜1598)も茶の湯に関心を持ちました。秀吉は、著名茶器の所有許可や茶会開催の権利などを褒章とする政策を生み出し、大坂城の築城中には正月三日の朝から茶室を開いて茶会を開催するほど、茶の湯に熱を入れていきます。

信長と秀吉は、茶道具の美しさに魅了された

一方の利休は、信長に仕えていた三人の茶堂がそのまま秀吉の茶堂となった際に首座となり、茶堂の間での存在感を強め、リーダーシップをとるようになっていきます。

「侘(わ)び」は、利休亡き後に広がる

商売を盛り立てるために始めた茶の湯の世界で頭角を現し、自ら茶道具や茶室をつくるようになり、最終的には茶の湯の大成者と崇められるに至った利休。その茶風は、のちに「侘び茶」と呼ばれます(利休の存命中には、侘び茶という言葉はなかったと見る向きが一般的です)。

侘びという言葉が利休の茶の湯の美意識を表す言葉として最初に使われたのは『南方録』です。この書物は、利休の弟子が利休三回忌の際に献上した伝書との触れ込みでしたが、実は元禄年間に書かれたもので、現在は江戸期の茶道における利休関連の資料と位置付けられています。

『南方録』では、侘びは高価な唐物道具を買うことができない手元不如意(家計が苦しく金がないこと)な茶人たちを指すとされています。抹茶が伝来してからしばらくは、お茶を飲む際は値の張る唐物道具を使っていました。たとえば、抹茶をすくう茶杓は象牙の薬さじが用いられていました。しかし、日本には象がいないこともあり、木や竹が用いられるようになります。

当初、竹にある節は不要なものとみられ、節を避ける、または、見えにくい位置になるように竹を切り、茶杓を作っていました。しかし利休は、竹の節の前後の模様を面白がり、あえて節が茶杓の中央になるように竹を使ったと伝えられています。

利休はあえて、茶杓の中央部に節を配置した

茶会の料理、茶碗と侘び

茶会につきものの料理と茶碗にまつわる利休のエピソードからも、侘びに迫ってみましょう。

利休が茶会で出した料理は、13会分が記録に残されています。20代から最晩年までにわたる記録を見ると、膳には足のない折敷(おしき)を使い、汁一種と菜(おかず)三種の一汁三菜以下が基本でした。利休は「あまりごちそうも、粗末なものも良くない」と語ったとの証言もあります。今でいうところの、ほどほどがちょうどいいとのスタンスでしょうか。利休はもてなされる側にまわっても姿勢を変えなかったようで、茶会で足付き膳のごちそうが出されたことに機嫌を悪くし、箸を付けなかったそうです。

利休らしさがよく感じられるとして、たびたび例に挙げられるものが楽茶碗です。特に利休が一目置いた長次郎の楽茶碗は、ろくろを使わず、手で形を作っていったことから自然な出来上がりとなりました。装飾やけれんみのない形や風合いが、利休好みだったのでしょう。

純粋に茶の心のみを求める

ろくろを使わずに成形する黒楽茶碗

利休は、茶の湯を大成させるとともに、秀吉側近の茶人として晩年を過ごしました。大坂城を訪れた大名が、秀吉の弟・秀長から「公儀のことは私に、内々のことは利休にたずねなさい」と言われたと伝えられていることから、利休は内政にも関与していたのでしょう。

しかし、秀吉と利休の蜜月はあっけなく終わりを告げます。秀吉は利休に堺での蟄居を言い渡し、果ては1591年に切腹を命じ、聚楽(じゅらく)屋敷へ呼び寄せます。何が秀吉の逆鱗に触れたのかについては、「利休が安価の茶器を高額で売り、私腹を肥やした」、「利休が寄進した利休立像が、山門の下を通る秀吉らを踏みつけるようで不敬だ」など諸説あり、真相はわかりません。

秀吉が利休に切腹を命じたと聞くや、武将や弟子たちは利休に謝罪するように助言しますが、利休は首を縦に振りません。一方の秀吉は、弟子たちが利休奪還を図らないようにと、上杉景勝の幾千もの軍勢に屋敷を包囲させたというのですから、利休の存在は秀吉には脅威でさえあったのでしょう。

最期の日、利休は切腹を伝えに来た使者に「茶室にてお茶の支度ができております」と伝え、お茶を点てました。そして、ひと呼吸つくと、湯が沸く音を聞きながら切腹したというのです。

利休の名は、秀吉が献茶を行った際に正親町(おおぎまち)天皇から賜ったものです。「名利共に休す」、名誉も利益も求めない、純粋に茶の心のみを求めるという意味が込められているとされています。

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