三川内焼×ルピシア オリジナル蓋碗

嘉久正窯 里見寿隆(さとみ としたか)さん

透き通るような純白の磁肌を染める、繊細な藍色の筆致。長崎県・佐世保で400年ほどの歴史を持つ三川内焼(みかわちやき)の窯元、「嘉久正窯(かくしょうがま)」とルピシアの共作で、オリジナルの蓋碗(がいわん)が誕生しました。実際に窯場を訪ね、製造の様子を見学させていただきながら、誕生までのストーリーを里見さんと一緒に振り返ります。

伝統と暮らす 吉祥のうつわ 目次

オリジナル蓋碗 誕生のきっかけ

里見さんと初めてお会いしたのは一年前の冬のこと。ルピシアの茶器担当が、展示会で見た嘉久正窯の繊細で緻密な絵付けに心を奪われ、その場でご挨拶をさせていただいたことがきっかけでした。オリジナルデザインの蓋碗を作らせてほしい、そんな熱意を快く受け止めてくださり、二人三脚の蓋碗作りが始まったのです。

デザインを手がけたのは、長年ルピシアに勤めるデザイナーの一人。「デザインするにあたって、三川内焼の魅力である“真っ白な生地と藍色のコントラスト”が映えることを大事にしたいと思いました。それでいて、どこか懐かしさもありながら、今の暮らしに溶け込むように」と、早速制作に取りかかりました。

三川内焼の絵付けといえば、写実的な草花から祥瑞(しょんずい)の文様、中国の子供が遊ぶ様子を描いた「唐子絵」まで実に多彩です。その中で、今回のテーマとなったのは吉祥文様。

「嘉久正窯さんの南蛮七宝のモチーフを初めて見た時、とても惹かれるものがありました。幸せが広がるようにとデザインに込められた意味も知り、なんて素敵なのだろう」と感じたデザイナーは、そこからアイデアを着想。文様の持つ意味や特徴を捉えながら別々のモチーフ同士を組み合わせたり、蓋の裏には遊び心を忍ばせるなど、ルピシアらしいエッセンスを取り入れていきました。

最初に上がったデザインをご覧になった里見さんは「新鮮に感じました。普段から描いていて馴染みのある南蛮七宝や菊割ですが、図案が掛け合わされることでデザインの面白みが出ていました」と話します。

試行錯誤、そして完成へ

ここからは完成に向けて、いよいよデザインを形にしていく段階です。試作をしてはイメージをすり合わせるため幾度もの打ち合わせを行いますが、リモート会議でのやりとりではどうしてもイメージの共有が難しいもの。

受け皿、本体、蓋とパーツに分かれた蓋碗を、パソコンの画面の中で平面的にデザインをしていたため、デザイナーにとっても立体の完成形がどう見えるか不安を抱えたままでいました。

そんなある日の打ち合わせ中、里見さんが手に取られたのは試作品とサインペン。手元の蓋碗に描き込んでは見せてを繰り返しながら、図柄の位置や向き、余白の見え方などの細かな調整にその場で応じてくださったのです。

里見さんは「想像より実際にやってみた方が早いでしょう」と寛容に笑っておられましたが、ルピシアスタッフ一同はその温かさに感激してすっかり心を打たれてしまったのでした。

打ち合わせで見せていただいたペン描きの試作品。

試作を重ねること半年、ようやく3種の吉祥紋蓋碗が出来上がりました。初めて完成形を手に取ったデザイナーはこう振り返ります。

「完成した蓋碗を見て、言葉にならないほど感動しました。よく目を凝らすと筆の走った跡に呉須が溜まっていて、表情があると感じたのです。パソコン画面上で描く線画は残念なことに、どうしても画一的なラインになってしまいますが、一筆一筆手描きで命が吹き込まれていました」

三川内焼とこれから

「この蓋碗をきっかけに、多くの方に三川内焼を知っていただけたら嬉しいです」と里見さん。多くの伝統工芸で後継者不足に警鐘が鳴らされる今日、三川内も例外ではありません。もともと産地の規模が小さいこともあり、ほとんどの窯が世襲で屋号を継いできましたが、これからは外からも新たな継ぎ手を迎えられるよう、地域一体で環境を整えつつあるところだといいます。

産地の歴史に触れ、窯場を見学させていただく中で、献上品として磨き上げられてきた圧倒的な技術力の高さや、見るほどに魅力を増す焼き物としての奥深さに、あらためて感銘を受ける訪問となりました。

三川内焼のルーツとは?

三川内焼の起源は16世紀末まで遡ります。豊臣秀吉による朝鮮出兵の際、平戸藩の領主であった松浦鎮信(まつらしげのぶ)が、帰国にあたって100名ほどの朝鮮陶工を連れ帰りました。その後、陶工らが現在の長崎県平戸市に「平戸焼」として開窯したのが、三川内焼のルーツの一つです。

もう一説では、時を同じくして佐賀県北部で発展した唐津焼からの流れといわれています。唐津も朝鮮陶工たちの手によって産地として急速に成長していきますが、当時の領主の波多氏は秀吉の不興を買い、陶工たちは九州各地へ散り散りに。そこで行きついた先の一つが、現在の佐世保市三川内町でした。

当初は主に日用品や器物として生産されていましたが、やがて技術の向上に伴い、美しい染付技法や彫刻的な装飾が施された精緻な作品が作られるようになり、平戸藩、幕府へ献上品を納める御用窯として技術を研鑽してきました。現在では鑑賞用の美術品から茶器や食器など日常生活で使われるものまで、幅広い用途で愛されています。


お茶を味わいつくす 蓋碗のすすめ

急須としても、茶碗としても使える「蓋碗」。特集ページでは様々なデザインの蓋碗と、その使い方をご紹介しています。