明治から令和へ150年の物語
写真:近年、和紅茶品種として世界的な注目を集める「いずみ」の新芽。静岡・丸子の多田元吉翁碑に植えられた記念樹より。
英国の国際ティー・コンペティションで世界最高峰に輝くなど、優れた茶葉の品種・産地として、近年世界中から注目が集まる日本産の紅茶「和紅茶」。
その誕生の歴史は、明治時代にさかのぼります。150年の時を経て、明治から令和へと紅茶のバトンを繋いできた人々の軌跡と、新世代を迎えた「和紅茶」の魅力をご紹介します。
特集「和紅茶ルネサンス」目次
参考文献
参考資料 /『 茶業開化:明治発展史と多田元吉』川口国昭、多田節子 著(1989)、『茶道楽』社団法人静岡県茶文化振興協会 2000年10月号
明治政府が夢見た「紅茶」産地としての日本
日本の近代茶業の始祖であり、様々な品種の紅茶茶樹を日本に運んだ和製プラントハンター多田元吉(ただもときち 1829〜1896)。今から150年前、茶業振興の国策として政府の依頼を受け、日本で初めて紅茶の生産に取り組んだ人物です。「北辰一刀流の千葉周作の道場に通い、腕前は相当なものだった」と伝わる青年期の多田元吉は、横浜に移住した外国人の警備を行う神奈川奉行や、北海道の蝦夷警備派遣部隊の先発隊に組み込まれるなど、激動の幕末期をその現場で生き抜いた元幕臣でした。
多田元吉の唯一現存する写真。19世紀当初、英国のインド支配や清国とのアヘン戦争などの出来事を通じて、アジアの中で独立を保つためには、国力を強化する他に方法はないという国家観の認識があった。元吉は、まさに元幕臣としての矜持と使命感から、単なる技術の習得だけではなく祖国を救い強化するため、紅茶の製法や近代的な製茶技術を持ち帰って人々に広めた、明治開国期の英傑の一人といえる。
明治初期、日本から海外への輸出貿易品の中で、お茶は絹や生糸と並ぶ重要な商品でした。世界的な紅茶の需要の高まりに合わせて、明治政府は国策として、紅茶の生産・輸出を奨励するため明治7(1874)年、「紅茶製法書」を各府県に配布し、紅茶製造の推進を図りました。
また翌年、中国から2人の技術者を呼び九州で紅茶の試作を試みましたが思ったような成果は上がらず、いよいよ専門の技術者を海外に派遣することを決めます。
和製プラントハンター、いざインドへ
全国の製茶技術者の中から最も優れた候補として選ばれたのが、静岡の丸子(まりこ)で茶業に転じ、茶の栽培法の改良を進めるなど熱心な開拓を続けていた元吉でした。元幕臣で、維新後、次々と実績を上げて注目され、中央にもその名が知られるようになっていた元吉は、明治8(1875)年、通訳と技術者の3名で中国へ赴きます。主要な紅茶産地を訪れた元吉の仕事は、栽培や製造法の調査、種子や製造用具の購入など多岐にわたりました。広大な未知の中国を踏査(とうさ)し、予定を1ヵ月オーバーして帰国後、インドで蒸気機関を動力にした大量生産が成功しているとの情報により、元吉を含む3名は明治9(1876)年、インドに派遣されます。途中、香港、広東、ベトナム、シンガポール、セイロンなどを経てインドに到着。猛暑の中、鉄道や船、牛車、馬車を乗り継ぎ、伝染病に感染するなどその行程は探検に等しいもので、命がけでダージリンを目指しました。英国の植民地下にあったインドで訪れる茶園はすべて英国人が経営する大茶園で、元吉は茶樹の栽培から発酵、乾燥に至るまで機械による紅茶製造のすべてを詳細に調査してスケッチし、揉捻機の設計図や研究書、多くの紅茶の見本や製造用具、種子などを買い集めました。
和製プラントハンター多田元吉の遺品より。双眼鏡と砂時計、懐中時計形の置き時計と、東インド会社ならびに英国がインドで発行したコインなど。
静岡市歴史博物館蔵
※プラントハンター(Plant hunter)とは、様々な植物の新種を求め世界中を探索する探検家のこと。主に17世紀から20世紀中期にかけてヨーロッパで活躍した職業のひとつ。
日本初、インド方式の国産紅茶誕生
インド出張任務を終えた帰路の途中に中国の緑茶生産地を回り、ここでも茶園の調査と緑茶関係の用具や種子などを大量に購入し、約11ヵ月にも及ぶ長旅を終えて日本に持ち帰りました。帰国後まもなく、元吉は技術指導者として高知県香美郡へ赴き、数十名の指導をしながら製造を試みました。その結果、日本初のインド方式による紅茶が出来上がったのです。英国大使館では厳しい評価を受けたものの、横浜の外国商社などでは「インド産には及ばないが中国産よりずっと優れている」と、予想以上の価格で買い取ってくれました。
明治政府の国内出張命令書。帰国した元吉は東京、福岡、鹿児島、静岡に紅茶伝習所を開設、また各地で持ち帰った紅茶品種などの育成を行った。
製茶機械、製茶技術、また品種改良など、日本の近代的なお茶作りの基礎を精力的に指導した。
静岡市歴史博物館蔵
政府はこの成功を機に、本格的に紅茶生産を推進。明治11(1878)年に東京、福岡、鹿児島、静岡の各府県に紅茶伝習所を開き、生産者養成と生産の拡大へ向けた活動を展開しはじめました。また、インドから持ち帰った種子は、全国の試験園に播種(はしゅ)され、明治13(1880)年には早くも収穫が始まりました。さらに元吉は種子から育成した苗を日本の風土に合うように品種改良を試みました。それらは後の緑茶用品種の母樹となり数々の優秀な品種が生まれ、今でも育種素材として活用されています。
さらに元吉による日本初の動力機による製茶機械により、機械化の道が開かれ、近代的な緑茶の大量生産体制に移行していったのです。元吉は、紅茶だけでなく緑茶でも時代のリーダーとして日本茶業発展の中心的な役割を担っていきました。
国産紅茶の衰退 その時代背景
元吉がもたらした紅茶の技術は緑茶製造にも応用され、茶の品種改良や有機栽培、製茶器具の発明、害虫発見、技術者の育成など日本近代茶業発展の基礎を築きました。
しかし、紅茶の生産は昭和初期をピークとして、昭和20(1945)年第二次世界大戦が終結した後の日本経済の高度成長に伴い、輸出品としての価格競争力が失速。紅茶の産業化推進は中止されました。さらに昭和46(1971)年6月には紅茶の輸入自由化が開始されたことで、価格の安いインドやセイロン、アフリカなどの海外紅茶生産増大に伴う国際的な価格下落により国内の市場と消費も減少。国産紅茶は一部の地場消費用にごく少量が生産されるようになりました。
和紅茶のオリジンそのバトンを繋ぐ村松二六氏
1990年代、衰退してしまった国産紅茶を復活させた一人が静岡丸子(まりこ)紅茶の村松二六(むらまつ にろく)さんです。元吉が開墾し切り開いた丸子に生まれ育ち、子どもの頃から茶樹の原木に囲まれた元吉の墓所を遊び場として育った村松さん。この紅茶発祥地のお茶を絶やしてはならないと茶園の土作り、茶樹栽培、紅茶発酵の仕組みなど独自の研究を重ねながら紅茶の製造を続けています。
また、元吉のひ孫である多田節子さんや地元の新聞社に勤務する作家の川口国昭さんらと多田元吉翁顕彰会を立ち上げ、伐採の危機にあったインド系茶樹原種を移植保存し、その傍に石碑を建立するなど、まさに多田元吉の偉業を今に伝える人です。
多田元吉翁顕彰会による石碑
多田家に伝わる「宜興紫砂(ぎこうしさ)」銘のある茶壺。
静岡市歴史博物館蔵
多田元吉の遺品の一つ、象牙製天秤と真鍮皿のお茶秤。
静岡市歴史博物館蔵
特集「和紅茶ルネサンス」目次
新世代「令和・和紅茶」最前線
十数年ほど前から一部のコンテストや品評会出品を中心に、国産紅茶の品質が見る見る向上し、インド・ダージリンやアッサムのクオリティーと比較しても遜色ない品質の、新世代と呼べる茶葉が散見するようになりました。
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